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男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよく具しつる人々(共イ)なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。
廿二日(にイ有)、和泉の國までとたひらかにねがひたつ。藤原の言實船路なれど馬の餞す。上中下ながら醉ひ過ぎていと怪しくしほ海のほとりにてあざれあへり。
廿三日、八木の康教といふ人あり。この人國に必ずしもいひつかふ者にもあらざる(二字ずイ)なり。これぞ正しきやうにて馬の餞したる。かみがらにやあらむ、國人の心の常として今はとて見えざなるを心あるものは恥ぢずき(ぞイ)なむきける。これは物によりて譽むるにしもあらず。
投稿日: 11/28/2024, 3:00:15 AM
いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かンめれ。
御門の御位は、いともかしこし。竹の園生の、末葉まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき。一の人の御有様はさらなり、たゞ人も、舎人など給はるきはは、ゆゝしと見ゆ。その子・孫までは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つかたは、ほどにつけつゝ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。
法師ばかり羨ましからぬものはあらじ。「人には木の端のやうに思はるゝよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢まうに、のゝしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀ひじりの言ひけんやうに、名聞ぐるしく、仏の御教にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。
人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ、物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向はまほしけれ。
めでたしと見る人の、心劣りせらるゝ本性見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なく成りぬれば、品下り、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ。
ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道。また、有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、男はよけれ。
投稿日: 11/28/2024, 2:59:48 AM